ツィターの誉れ



役満のお膳立てをした後、おヒキの若者は姿を消した。
男は役満をアガった後も、しばらくは卓についていた。
すぐに引き上げては怪しまれる。
何の芸もなく打ったり、役満への妬みをそらすためにちょっとばかし大きめに負ける目的で、わざと手を入れたりしているうちに、若者のことが気になりだした。
どこで何をしているのか。
そこいらの雀荘でヒラで打って、小遣い稼ぎでもしているのかもしれない。
立て続けにミナミで打って、誰かに見とがめられないといいが、と思った。役満をアガる時には用心しすぎるということはない。

若者が二人の投宿先である旅館に帰ってきたのはだいぶ遅くなってからだった。
部屋は次の間に広縁まである上宿で、庭には鯉が泳ぐ。バイニン風情がそんなところに泊まるのは、おそろしく浪費なことように思えるが、実際にはそうではない。木賃宿では壁も薄く、積み込みの練習もできず、下手をすると同業者にでくわしかねない。その点、上宿は危険がまるでなく、うまいことすると暇と金を持て余した旦ベェたちを相手にしているだけで宿代を浮かすことができた。
しかし、若者はここを嫌った。男が旦ベェの相手に忙しいときなど、積み込みの練習をするだけして、後はぷいっといなくなってしまう。
同様の理由で夜もなかなか帰ってこない。

珍しく口笛なぞを吹いている。聞き慣れない異国のメロディだった。

『どこほっつきあるいてたんや』

『千日前の映画館にいたんだ』

疑り深い男は『へぇ、どないなもんや』と訊ねる。本当に映画を見ていたのだろうか。
コンビを組んでいる相手でさえも、信頼はできない。いつ裏切られるか分からない。特に若い者ほど危なかった。棄てられる前に棄てたし、裏切られる前に裏切った。殺される前に殺した。殺した相手が夢枕に立つことはない。生きている相手が隣で寝ている方がよほど怖い。
男の問いに、若者は、オーソン・ウエルズが悪役を演るやつさ、と答える。
若さからくる気まぐれなのか、若者は時折ふっと賭場から遠ざかることがあった。
賭場に出入りするような青年たちが、他に遊ぶというと、ヤクか女かだが、この若者はあまりそういったものに興味を示さなかった。
金がある時にはジャズやシャンソンを聴いたり映画を見たりしている。金がない時には川べりで煙草を吸いながら水面を飽きもせず眺めている。時折猫が寄ってきて、にゃぁーんと鳴く。若者は猫の喉もとをなでてやる。猫がごろごろと鳴く。

『伴奏覚えちまった』

若者はそう言っては、また口笛で先ほどのエキゾチックなメロディを繰り返した。後ろめたいもののわざとらしさではなく、娯楽に興じた者のうきうきとした楽しさが滲んでいる。
男は詮索を止めたが、若者は話をしたがった。

――小説家が焼け野原になったウィーンに友人の招きで来るんだが、招待したはずの友人はおっ死んじまって、葬式の最中だ。

新聞を読みながら、男は適当に聞き流す。スクリーンの中に感情移入する者の気がしれない。千日前でキネマを見ていた。そのアリバイが確かなものならば、キネマの内容なぞどうだっていいのである。

――その友人ってのが、実はあくどい奴なんだが、そのことを聞かされても小説家は信じない。

――自分でもなんとなく騙されていることはわかっちゃいるんだが、信じたくないんだな。

しかし、煙草を吸いながら、映画のあらすじを語って聞かせる青年を見ていると、ムクムクと不憫な気持ちが男に急に湧いてきた。
同じ年頃の若者に囲まれて、ぬくぬくと過ごしておればよかったのに。友垣にまぎれて遊んだり、女たちと色恋でもしていればいいのに。なんの因果か、初老の男と股旅暮らしとは。
一瞬目頭があつくなりそうなほどの悲哀を感じたが、それこそフィクションを見て、可哀想だと思うようなもので、その不憫さは楽しむためのものである。
男の本質は老獪で残忍な博徒である。
青年のことは一目見たときから嫌いだった。
鉄火場でしゃんと背筋を伸ばし、汗ばんだ額の下に涼やかな双眸が光っているのを見たときから大嫌いであったが、コンビを組んで、二人で賭場を荒すようになってからは、それが憎悪に近いものになった。
しかし、その感情は色こそ黒々としているが、形は靄のようなもので、憎悪という言葉が持つ、凝り固まったニュアンスにはそぐわない。その感情は行動を束縛しない。
男は若者に作り笑いもしたし、身を案じるような言葉もかけた。
もともと、男は嫌いな人間との付き合いの方が格段にうまいのである。
好いた相手とは決してうまくいくことがなかったし、好きになることそれ自体に恥を覚えていた。年を重ねてからはどんな人間をも好かぬようにしていたし、事実、誰も愛さなかった。そうして、男の話術はますます巧みになり、男がその気になれば気を許さぬ者はいない。
だから、若者と親子のように密着して日々を送ることなど男には造作もないことであった。

男に限らず、博徒というのは誰もかれもが皆、歪である。
可哀想だと憐れまれたところで、この若者も、所詮、歪であろう。
そのままでは、普通の友情も月並みな恋も育てられなかったに違いない、と男は睨んでいる。
顔は悪くなかった。典型的な二枚目でこそなかったが、厚ぼったい瞼と官能的な唇をしていて、それらに一種頽廃的な雰囲気が漂っていて、色男と言える。
頭も切れて、気働きも良かった。意外に努力家な一面もあり、愛想よくしていれば誰からも好かれる人間だ。
交友や女には不自由せず、向こうの方から寄ってきそうな人種であるが、それらを投げ捨てて博打の世界へと渡って来た。他人から見れば非常に奇異に映るが、本人にとってみれば、熱帯夜に寝ている間に無意識に布団を剥いでしまうような自然な成り行きだったのだろう。
それでも。そうではあっても。全くの後悔がないものだろうか。
博徒の習性で男はいつもキズを探している。虚栄、諦観、後悔、未練。そんな暗い感情はキズになる。博徒はそのキズひとつから始めて、相手を食い漁る。綻びひとつからするりと入り込み、末は丸裸にして寒空のもとに放り出す。犬のように扱い、豚のように殴り倒す。骨は野ざらしだ。
会話が途切れた頃ぽつんと問うた。

「なあ、坊(ぼん)。お前、故郷が恋しくないんか」

しめやかな問いに昏い目にでもなるかと期待したが、相手はきょとんとした顔つきになった。
この若者は瞼が厚いため、どこか眠そうな目をしている。驚いた表情は、もう滅多にすることがなくなったが、今でも驚くと、幼く、また、ひどく根が良さそうに見えた。

「なんでそんなこと訊くんだい?」

「なんとなく、や」

若者は黙って煙草を吸い、しばらくの間沈黙が降りた。
煙草は通しに便利だからと、男が強いて覚えさせたものだ。若者は初めの数本こそ噎せて涙ぐんだが、今では、すぱすぱと吸っている。
沈黙には手ごたえがあった。沈黙は重く暗い。
沈黙にはキズの味わいがたっぷりとある。
男が内心、にんまりとしたその時、ふーっと、肉感的な唇から息を吐いて、若者が沈黙を破った。

「アンタから教わったんだぜ。バイニンってのは、『今』しかねえんだろ。過去や未来なんぞを見るのは素人のやることだ。俺ァ、バイニンになるって決めたのさ。俺というドラを手牌にいれてリーチしちゃったんだ。あとはツモ切るしかないんだよ」

男はひやりとした。存外に胆力のある答えに、若者が博徒として大きくなることを危ぶんだのである。存在が大きくなれば望みも大きくなろう。望みが大きくなれば、老馬を乗りつぶすように、相手を扱うようになるだろう。かつての自分がそうだったように。

若者がすこし表情を緩めた。雰囲気が硬くなった、と思ったようであった。
恋しいなんて思わねえよ、とそっけなくも朗らかに言い、それに……と続けた。

『それに、俺には小父さんがいるじゃないか』

やはり、眠そうな、とろっとした目で、青年は笑った。
機嫌が良いと、若者は男のことをそう呼ぶ。
ちょっとのからかいとふんだんの親しみを込めて、小父さんと呼ぶ。
若者の目は、つい先刻の厳しくも熱を帯びた、誰をも見ていないような眼ではなく、穏やかで柔らかな眼になっていた。
笑いかけた相手は博徒だった。
奪われぬ者には憎悪するし、奪い尽くせぬ者には嫉妬するし、奪う価値もない者には冷笑する。
憎悪と嫉妬と冷笑と羞恥を満腔に充たして、男は、つとめてハハハッと声を出し、照れ笑いに見えるように嗤った。